郷里の関宿に戻られた晩年の鈴木閣下は国の復興は農業からとのお考えから、特にらくのうの振興をお勧めになられました。
稲作と酪農を組み合わせ、河川敷の草地をも利用しり農業はその後の関宿の農業モデルとなりました。
復員してきたばかりの若者23名が「農事研究会」を設立し、閣下は知人である能楽の権威を自宅に招き、講義をその若者たちに聞かせるなど全面的に支援をされました。
閣下の最後はひっそりとしたものでわずかな身内と農事研究会の若者達が見守るだけでした。
ご遺体の火葬は船で渡って対岸の堺町におこなわれました。
そのときご遺灰の中から二・二六事件のときに放たれたピストルの弾丸が出てきたときのことでした。
弟の孝雄大将によれば無理に摘出しなかった首に残った弾丸だったそうです。


